仏教の言葉に「薫習(くんじゅう)」という言葉があります。
お香の香りなどが衣服などに付着して残存するように、経験した事柄が心の奥底に深く残存することをいいます(深層心理)。池之内の先人方は「良き縁には近づけ、悪しき縁は避けろ」と精進してこられました。このようにして人々の“こころ”はつちかわれてきたのです。脈々と受け継がれてきた“こころ”の水脈は、池之内のいたるところで見受けられます。こうしたご縁との出会いは、わたしたちのかけがえのない財産です。
江戸時代の頃より、西方寺内には寺子屋が開かれていました。
明治五年十二月、片桐地区の学び舎であった西方寺の寺子屋は「明道舎(めいどうしゃ)」と名づけられ小学校として地域の先頭を切って設立されました。明道舎では、寺子屋での教育を引き継ぎ「薫習(くんじゅう)」(環境がもたらす影響を指します)という教育的環境を大切にして、心の教育も行われました。
その後、明道舎は池之内五番地へ移転し、明治九年「池之内尋常小学校」へと改称されました。さらに、明治二十四年には池之内尋常小学校と周辺の「小泉」「西村」「田中」尋常小学校を合併する形で「片桐尋常小学校」(現在の片桐小学校)が設立されました。
親から子へ繋ぐ未来。人々は子供たちが“学ぶこと”こそが、未来を切り開くと考えたゆえんでしょう。
江戸時代のこと、その年は農作物が不作で人々が生きることさえ困難な状態が続いていました。しかし藩は、村人に例年と同じように年貢を納めるよう命じました。
このままでは人々が生きてゆくための食料がありません。
村の人たちは、話し合いました。そして、藩へ年貢を待ってもらうための嘆願書を提出することを決意しました。当時、藩の命令に逆らうことは決して許されません。嘆願書を提出すれば死罪になるかもしれません。しかし、このまま食料が尽きるのを待つのではなく、自分たちの現状を伝えようと立ち上がりました。
村人の想いを一人が嘆願書に記し、連名で藩へ提出したのです。
しかし、想いは聞き入れられませんでした。そればかりか書の文字がとても達筆だったために「このような字を書ける者は奥西半兵衛しかおらん」と、執筆した半兵衛さんを藩の牢屋に入れてしまったのです。
半兵衛さんは役人たちの厳しい取調べを受けました。時にはひどく殴られたりもしました。
一日の取調べが終わると、牢屋で眠る日々が続きました。
ある日のこと、看守の役人が牢屋の中の半兵衛さんに話しかけました。
村人たちが置かれている現状と共に、人間の心を支える仏法について半兵衛さんは話しました。
「人間はつかの間の“いのち”です。このつかの間の“いのち”を越えて迷ってきた生死輪廻から出なければなりません。そして、尽きない生命(無量寿)の世界に入るのです。命の帰するところを得てこそ“生きてよし、死んでよし”と、本当にこころ安んじることができるのです。」
半兵衛さんによって淡々と語られた尊い話は、いかなる権力を傘に着る役人の心深くにも響きました。
やがて、半兵衛さんにむち打ちの刑が下されました。
執行役でもあった看守たちは、身分が低くこの刑の執行を止めることができません。しかし、刑の執行は看守から半兵衛さんに密かに伝えられました。
「あなたのような方を、こんな目にあわせて相済まぬ。どうか許してください。むち打ちは強くたたくふりをするから痛い演技をしてください」と。
こうして形だけの刑が執行され、半兵衛さんは村へ帰されたというエピソードが伝えられています。
西方寺近くのため池の畔に、大きな頌徳碑(こうとくひ)が静かにたたずんでいます。
「池之内信用(購買販売利用)組合」の設立に力を尽くした故堀内徳司氏、故塚田政郎氏等の功績を称えた記念碑です。片桐農協のもとになった池之内信用組合は、当時の農業に携わる者にとって非常に画期的な制度でした。奈良県内で最も早い時期である明治三十八年に設立されました。
天候によって大きく左右される収穫。不作の場合、人々の暮らしはとても厳しくなります。そうした、不作に備え、また産業、経済発展のため、人々が協力する組織が信用組合です。
さらに碑文には「生活・産業道路の新設の如きは筆舌には尽くせぬ苦心と努力の賜なり。」と称賛されています。
この組合が計画・立案され、誕生の場となったのが西方寺本堂です。
その原動力となったのはこの地に脈々と受け継がれ、育まれてきた“人々が手を携えて暮らそう”という「共生(一緒に生きる)」の精神です。その依って来たるところは“世のなか安穏なれ仏法ひろまれ”という如来聖人の願いからといえるでしょう。
池之内の南端、周囲を水田に囲まれた一角に“こんもり”と木々の生い茂る場所があります。その茂みを分け入ると「うしの宮」という文字が刻まれた石碑が姿を現します。
“人と動物が共に助け合って生きる”物語「うしの宮 伝説」を伝える石碑です。
奉公期間を残して死んでしまった働き者の少年の代わりに、牛が残りの期間を務めあげたという伝説です。役目を果たした牛も直後に死んでしまい、村人たちは少年と牛の死を悲しみ、牛を葬った場所がこの「うしの宮」であると伝えられています。
この伝説は、池之内の人々により何世代にも渡って語り継がれてきました。それは共に耕作を助けてくれた牛をも、人々がいつくしみ大切にしてきた証とも言えるでしょう。