西方寺には、紙に「南無阿弥陀仏」と六字のお名号が書かれた掛け軸が残されています。このお名号は、茶色の紙に墨で一気に書かれた草書体のお名号です。
使われている紙の特徴は、目の細かい画仙紙風の紙で、墨の淡い色は青墨と呼ばれるものです。紙も墨もともに中世後期のものと認められ、お名号の書きぶりは本願寺第八代蓮如上人によって書かれたものと認められます。現存する蓮如上人筆の六字名号のなかで、大阪市浪速区の願泉寺に所蔵されているものには、蓮如上人の花押が書き添えられています。西方寺の六字名号は、「南」と「無」の間を線でまっすぐつないで書かれていたり、「弥」の旁の腰が反っているところなど端々で願泉寺の六字名号と共通する書き癖が認められます。さらに、筆の太さが均一になっているところも、蓮如上人の筆跡の特徴があらわれています。それらのことから西方寺のお名号は蓮如上人によって書かれたものと判断できます。
また、お名号が書かれた紙の上部や、「仏」の文字の部分の破損は、永い年月の経過を物語るとともに、礼拝対称として奉懸されていたことを伝えています。蓮如上人は、「本尊は掛け破れ、聖教は読み破れ」と仰っていますが、このお名号はまさにその蓮如上人の意向を実践されていたものでしょう。
蓮如上人は、応永二十二年(一四一五)に本願寺第七代存如上人の長男として誕生されました。その頃の本願寺はそれほど大きな教団ではなく、若いときからご苦労を重ねられました。蓮如上人は、康正三年(一四五七)に四十三歳で本願寺を継職されますと、親鸞聖人によって開かれた浄土真宗の布教に努められました。とくに上人の布教の特徴は、「御文章」の製作とともに、このような草書体の六字名号の授与にあります。
蓮如上人は、生涯たくさんのお名号を書かれました。一日に二百幅、三百幅書かれたこともあるようです。このようにたくさんのお名号を書いて、有縁の方々に授与されることによって、浄土真宗が全国的に広がっていくこととなったのです。
大和国においては、早くから吉野地方において真宗が伝えられ、人びとのあいだで信仰され守られていたようです。
蓮如上人もこのようなご縁を求めて、応仁二年(一四六八)に紀伊の高野山から吉野のほうに来られています。そしてその後、大和平野を通って京都方面に帰られたようです。この頃から平野部でも徐々に本願寺系の道場が創られていきます。
戦国時代の大和平野では、戦乱のなかから自分たちの命や権利を守ろうと、村単位で自治的な結束を強めていきます。それが「惣村」と呼ばれるものです。池ノ内村は惣村としての村づくりの典型的な遺構がみられます。こうして戦国時代から江戸時代にかけて生まれてくるのが、真宗の場合には「惣道場」というものです。西方寺もこのような惣道場という性格にあったことが、本願寺の記録からわかります。
そして、江戸時代になると、このような道場が寺院へと発展していきます。
池内村において惣道場として創建されたものが、元禄三年(一六九〇)十二月五日には、本山から本尊の阿弥陀如来の木像をお迎えして、「西方寺」の寺号が許可されました。ここに正式に真宗の寺院となったのです。
現在西方寺に所蔵されています蓮如上人筆の六字名号について、お寺ではそれに関する記録は残っていません。しかし、蓮如上人と大和国の関わりや、西方寺の歩みを考えていきますと、このお名号を受けた人たちが大切に真宗の教えを守っていかれたことが想像できます。
風呂敷で丁寧に包まれた桐の箱。
そこから、一幅の掛け軸が取り出されました。
当寺の“ 蓮如上人筆 六字名号 ”が、修復の作業を終え戻った瞬間です。
龍谷大学の岡村先生の鑑定により、この名号が蓮如上人のご真筆であることが明らかとなったとき、私たちは大きな驚きと同時に、課せられた責任の重さに身震いしました。五百年以上もの時を経たことによる激しい傷み。その修復には、少しの猶予も残されていないようにも思えました。早速、岡村先生に修復の方法と今後の保管方法についてご指導を仰ぎました。
岡村先生から文化財修復に多くの経験を持つ表具師さんをご紹介いただきました。
今回の修復をお願いした松雲堂 藤本淳三さんです。
藤本さんの元を訪ねた私たちは、修復について様々な相談をしました。
修復には二つの行程があること。ひとつは、数百年の時を経た本紙(蓮如上人によって執筆された和紙)の破損や欠損した部分の修復と補強をすること。そして、もうひとつは次の数百年を過ごすために表装をして本紙を保護すること、など。藤本さんは丁寧に説明をしてくださいました。
この名号を、次の世代に引き継ぐために今するべき作業。
そのすべてを藤本さんにお願いすることにしたのです。
作業は、本紙を一枚の紙に戻すことから始まりました。
周囲に表装された布をすべて切り離して名号全体に水を含ませます。その上で、本紙一枚になるまで裏打ちされた紙を一枚一枚ピンセットで丁寧に剥がしてゆきます。本紙と裏打ちされた紙とを丁寧に見極めながら行う作業は、決して気を抜くことが許されません。
藤本さんは作業の中で名号の現状をじっくりと把握してゆくそうです。
表装をした昔の職人さんがどのくらいの技術を持ち、どの様な作業をしたのかが手に取るようにわかるといいます。
「お粗末な仕事をすれば未来の職人に笑われてしまいます。」
職人同士のプライドを懸け時を超えた技のやり取りが、この一幅の掛け軸上で繰り広げられているのです。
さらに修復には気の遠くなるような作業が存在します。
本紙の表面にできた膨大な数のひび割れを補強する作業です。約五ミリ幅に細長くカットした和紙の短冊を一枚ずつ糊で貼り裏から塞いでゆくのですが、貼り付ける短冊の数は実に数百にも及びます。これは本紙の補強の為にとても大切で、完了するまでに数日間を要する根気のいる作業です。しかし、その作業を終えた本紙の裏面には、息を呑むほどに美しい職人技の軌跡がありました。
この後、本紙への裏打ちと数日間の乾燥を数回繰り返して、補修と補強の行程が完了します。本紙が次の数百年を迎えるための“下準備”が整うのです。
さらに作業は、表装の行程へと移ります。
表装は本紙を美しく飾るのみならず、本紙の保護に大きな役割を果たします。多くの紙を裏打ちすることで本紙は大幅に強化することができ、周囲を布で囲うことによって本紙を様々な衝撃から保護することもできるのです。
この作業にも藤本さんの長年の職人技が冴えます。
当て木と断庖丁を使い布を裁断、裏打ちと乾燥を終えた名号本紙の周囲に布を糊づけしてゆきます。藤本さんの動作に一切の迷いはありません。驚くほどのスピードで大胆に布を次々とカットしてゆきます。糊をつける刷毛の動きも同様、一点ずつのパーツでしかなかった布が本紙の周りに繋げられてゆきます。見る見るうちに、寸分の狂いもない均等な幅で名号は表装されてゆきます。
近年、化学的に合成して作られる糊が数多く流通しており、職人さんの間でも広く用いられるようになりました。大量生産ができるため天然糊に比べ安価で、乾燥にかかる時間も短いという利点があります。
しかし、今でも藤本さんは米を煮詰めて大変な手間をかけて古来の製法で糊を手づくりしています。
「乾燥した化学合成糊は頑丈に固まり過ぎるのです。
そこに大きな問題があると藤本さんは顔を曇らせます。一度、強固に貼り付いた紙は二度と剥がすことができず、紙の劣化が進んでも、二度と修復ができなくなってしまうことを意味するのです。
人々によって守り継がれてきた「もの」を次の世代に繋いでゆくこと。
それは藤本さんにとって、人々に守り継がれてきた「職人の技と魂」を次の世代に繋いでゆくことでもあるのです。
その後も、藤本さんによる裏打ち作業と乾燥の行程が続きました。
そして、最後に桐製の軸が藤本さんの手で取付けられすべての作業が終了しました。
平成20年11月29日。
藤本さんご自身の手で西方寺に届けられ、蓮如上人六字名号の修復がここに完結したのです。