“光陰矢の如し”住職を継職して、3年が経ちました。
その間、月参りや葬儀、寺の行事、地域の様々なイベントなど、皆さんと多くの時間を共にさせていただきました。月参りなど、家人とともに読経させていただく折には、話し相手として歓迎してくださるなど嬉しいこともある一方、仏事について質問される場面では責任を感じたりと、日々住職として慌しくも充実した、あっという間の3だったと言えるでしょう。
「 西方寺の住職として、皆さんとこの地で生きてゆく 」
そう決めた私にも、そこに至るまで様々な悩みや心の葛藤の軌跡がありました。西方寺という寺に生まれた私が池之内の外で暮し、その地でどのような時間を過ごしていたのか。どのような想いを胸に西方寺の新住職として、今、この場に立っているのか。ここではそんなお話をさせていただくことにしましょう。
昭和41年、私は西方寺で生まれました。当時は同じ年頃の子供たちがたくさんいて、池之内にも児童公園がありました。子供たちが元気に遊ぶ声をご記憶の方もいらっしゃるでしょう。その頃の私が何に夢中になっていたのか。残念ながらあまり憶えてはいないのですが、ごくごく平凡な普通の子供だったように思います。そんな普通の子供が、たくさんの大人たちから「ごくろうさまです」と声をかけてもらえることが、年に二度ありました。お盆と年末です。年に二度、池之内の西方寺ご門徒さま宅すべてに一日でお参りさせていただくという習慣があり、小学生の私も法衣に身を包み、ご近所へお参りに行っていました。村の子供の一人にすぎない私を、この時ばかりは一人の僧侶として丁重に扱ってくださったのです。
しかし、当時の私には照れくさく、居心地が悪かったことを憶えています。丁重に扱かっていただいているにもかかわらず、居心地が悪かったとはとても失礼な話です。それには理由がありました。その頃の私は、ある想いに心を覆われていたのです。
「 いつかは、西方寺の住職になる。ずっと、池之内で暮してゆく。」
当時の大和郡山は、大阪や京都の中心部に通勤する人々のベッドタウンとして、開発がどんどんと進んでいました。小学校の同級生にも、そうして大和郡山に移り住んできた家庭の子供がたくさんいました。そんなお宅に遊びに行くと、彼らは決まって新築の綺麗でモダンな家に住んでいました。自分専用の部屋までありました。一方、私が暮すのは数百年も前に建てられた寺でしたから、子供の私にとって彼らの家は輝いて見えました。そして、何よりも私の心を支配していたのは、自分自身の将来のことでした。会社員の家庭に生まれた彼らは大人になれは、東京や九州、それこそ外国で働くこともできます。そして、自分の就きたい仕事を自由に選ぶこともできるのです。そんなことを考えると、子供の私にとって彼らの人生がとても眩しく見えました。私自身の人生が「自由ではない」とさえ思えたのです。
そんな私に高校を卒業して進路を決める時がやって来ました。
明確なビジョンはありませんでしたが、得意な科目を活かして理系の大学に進学をしたいと考えていました。しかし、僧侶として学ぶための大学へ進学せねばならない。そんな義務感のようなものが、心の隅に常に存在し続けていたのでした。
そんな私の背中を押してくれたのが、先代住職である父でした。
「私もまだ若い、お前が望むことをすればいい」こう言ってくれたのです。
父の言葉に私は池之内を後にすることを決め、名古屋にある工業大学へ進学しました。1984年のことでした。大学では土木工学を専攻。都市・交通についての研究室に所属しました。都市が発展する際に必要になる「交通需要」。その予測についての卒業論文を執筆した際には、研究室に寝袋を持ち込んでひたすらデータとにらめっこするという経験もしました。ノーベル賞を受賞するような研究とは、かなり縁遠い世界ではありました。しかし、卒論を書き終えた私の心は言いようのない達成感に満たされたのを憶えています。
卒業後も、私は名古屋に留まり土木構造物の設計を請け負う会社に就職しました。会社を探す際、私は小さな会社で働きたいと考えました。小さな会社で設計実務のノウハウを学びたいという想いがあったのです。そのノウハウで個人の設計事務所が経営できれば、何とか食べていけるのではないか。当時の私はそんな想いを抱いていました。「いつかは住職になる」という想いが、就職に際しても私の心を離れることはなかったのです。もっとも、大企業を希望しても採用されるほど優秀であったかは、自信がありませんが。
その設計事務所では約10年の時間を過ごしました。そこでは主に、橋梁や地下構造物などコンクリート構造物の「構造設計」の仕事をしていました。計算により、高速道路の高架の部分、地下鉄の駅などの柱や梁、壁の大きさ、そこに配置する鉄筋の大きさを設計し、図面にするのが主な仕事です。一人の技術者として人命を預かる構造物の設計に携わりました。
キャリアを積むに従い、より大きな仕事を任されるようにもなりました。具体的には「地下鉄の駅」「地下駐車場」「道路の橋梁」などです。その小さな設計事務所にもチームが存在し、皆が力を合わせて、一つ一つの仕事にあたり、完成させてゆく。責任は重大で決して楽な仕事ではありませんでしたが、とても充実した時間を過ごしました。その一方で、多くの方々が経験するような会社員としての悩み。人間関係やビジネスの世界の厳しさ、挫折感なども味わいました。
働き始めて、ちょうど10年が経った頃でした。名古屋で、結婚をして子供も生まれていました。池之内を離れ、会社員としての時間を過ごす一方で「いつか住職になる」ということへの準備が何一つできていないのではないか。そんな焦りのような気持ちが沸き起こり始めていました。
私はとても悩んだ末、名古屋での生活を終えて奈良に戻る決意をします。設計事務所を退職し、奈良県内にある町の職員採用試験を受験。採用され奈良へ戻ることが正式に決まりました。一家で新しい職場近くの香芝市へ移り住み、公務員としての生活が始まりました。それは、平成20年に西方寺の住職となるべく退職するまでの間、約8年に及びました。その間、土木技師として主に公共工事を担当しました。8年のうち、半分の4年間はごみ処理施設の新設に携わりました。地域に暮す人々にとって欠かすことのできないごみ処理施設。しかし、その一方で家の近くにそうした施設があっては困るという声。行政の一員として地域の方々の心と向き合い、様々な意見を交わして双方が歩み寄れる点を探してゆく作業でした。「人が人の中で生きてゆくこととは何か。」そんな簡単には答えの出ない問いに自問する日々を過ごしました。
本堂の大改修の話が決定した頃のことでした。先代住職が私にこう言いました。
「そうした人としての問いに僧侶として向き合い、僧侶として生きてみてはどうか。」
私にとっての先代住職は大きな存在でした。子供の頃から、それは今も変わりません。僧侶として、仏法と共に生きる背中。ご門徒や地域の皆さんのことを想い生きる背中を目の当たりにして生きてきました。このたびの大改修は、その先代住職の永年の悲願であったことを息子として承知しています。私の人生の節目には必ず父としての先代住職の導きがありました。それは子供の頃の私にとって、「寺を引き継ぐ」という逃れられない足枷のように思えたこともありました。しかし、同じように子を持つ親となった今の私には、明確に理解できました。私の心の幸福を願う、父としての篤い心に他ならなかったことを。西方寺の新しい本堂は、門徒の皆さまをはじめとして、先代住職の想いに共感して様々にご尽力くださった方々の「想い」がカタチとなるのだと思いました。そうした想いの結晶を守り、次の世代に受け継いでゆく。それに自らの人生を捧げてみたいと、初めて素直に心から思えたのです。私は職場を退職して、西方寺の住職となるための準備を始めました。
そうして迎えた、西方寺住職の継職法要。さらに、それから3年。
周囲を見渡せば、地域の高齢化と過疎、少子化、など。世間で取り沙汰される色々な問題の縮図を池之内にも見ることができます。今は元気だけれども、10年20年を経て、高齢となった未来の自分は幸せに暮せているだろうか。そんな漠然とした不安の種とも言えるものが、みなさんの心にもあるのではないでしょうか。都市部では、隣人の顔も知らないことが、もはや日常となっているようです。私が子供だった頃に比べれば、この池之内と言えども、人々の繋がりが希薄になっていると言えるのかも知れません。時勢を考えれば防犯上、かつてのように一日中、扉を開け放っておくことは難しいでしょう。しかし、ここには今も野菜をくださったり、差し上げたり。また、皆さんの交わす言葉、笑い声を聞くこともできます。昔ながらのご近所同士のお付き合いがまだ残っています。なにより、西方寺の本堂は皆さんの想いがひとつになり、見事に生まれ変わりました。
その池之内が、私にとってまぎれもない「ふるさと」です。今年、中学生になる息子に、残してやりたい「ふるさと」でもあるのです。
嬉しい出来事がありました。小学校の授業参観でのことでした。子供たちがそれぞれの将来の夢について書いた作文を読むというものでした。作文の中で息子は「お参りを頑張るお父さんを手伝いたい」そう発表してくれました。私自身も、子に背中を見せる父であること。この時ほど、そのことを意識したことはありません。忘れられない、本当に嬉しい出来事でした。それと同時に、父として彼に残したい「ふるさと」とは、どのような場所なのだろうかを自身に問いました。それは、「ふるさと」のため、西方寺の住職として何ができるのだろうか。「ふるさと」をどう守り、どう次の世代に継いでゆくのか。という問いでもありました。皆さんの想いの結晶である西方寺の新しい本堂で、仏法に生きた僧侶である先代住職の背中を手本に、自身が仏法に向き合うこと。そして、多くの方々とご縁を拡げてゆくことから始めてゆこうと考えています。
外から池之内を見つめてきた者として、何ができるのかを探し続けてゆこう。西方寺の住職として「みづから信じ、人を教へて信ぜしむること」という、歴代の住職方が生きた自信教人信の聞法道を精進したい。また、心の「ふるさと」を次の世代に残したい。
そんな想いを胸に、今ここに立っています。