ご遺稿「他力信仰とは何ぞや」
信は徹底なり。妥協にあらず、賛成でもない、附和雷同でもない。真実自己の本性に徹底し如来大慈に徹底するのである。真実の信仰は決して盲従でない、祈?でもない。極善最上の仏心と極悪最下の凡夫心とが融合一致して一体なる境地を指すのである。然し融合一致といい、二者が一体となれる処に現われるのが真実の信であるというても、混合ではない、化合でもない。また二者の間に於てどちらともつかぬ別体が新しく出来るのでもない。すなわち如来の大御心が、我等悪業満ち満ちた心中に、徹底して下さるのである。世間ままある正反対の主張が一致する時は、雙方の面目がまるつぶれの時だ。これを体裁のよい言葉であらわしたなら妥協である。従つてその内容はろくなものでない。信仰は妥協でなく、折合でもなく、徹底である。水素と酸素とが化合して水ができるが信仰とはそんなものでない。恰も火が炭におこりついたやうに、放たんとするも放つべからず、火のままが炭である。炭のままが火であり、火を離れて炭なく、炭を離れて火なく、しかも炭の全体が火である。凡心と仏心とが一体になる境地を名ずけて信仰と申すのであります。ここを仏凡一体生仏不二と仰せられたのである。単なる恭敬や礼拝の対象たる如来は、我等と別体なるを以て到底我等を救うことは出来ぬ。本願というも名号というも、我等自身のものにならない限り、それは唯我等を拘束するのみで、決して我等を覚醒せしめ我等を自由にするものではない。如来と自己とは二人でない。全く我等の自性と如来の大御心とは、その間に寸分の隙もない。私の自性は悉く本願の中に摂められ、本願の精神は総て自性の奥底に染み亙つて居ます。されば煩悩や業障は私と如来とを相隔てるものでなく、却つて結合せしむる所以のものであります。
仏心というは大慈悲これなり。仏心はわれらを愍念したまうこと、骨髄にとおりてそみつきたまえり。たとえば火の炭におこりつきたるが如し。はなたんとするともはなつべからず。摂取の心光われらをてらして、身より髄にとおる。心は三毒煩悩の心までも、仏の功徳のそみつかぬところはなし。機法もとより一体なるところを南無阿弥陀仏というなり。この信心おこりぬるうえは、口業にはたといときどき念仏すとも、常念仏の衆生にてあるべきなり。
一心とは弥陀をたのめば、如来の仏心と一つになしたまうがゆえに一心というなり。如来と一つなり。仏心と相抱く心は仏と同じ心でなくてならぬ。けれども私の何処に仏と同じ心などがあろう。さような心は露ほどもない。あるものは唯貪欲や虚偽・愚痴などばかりである。仏はかねてこれを知ろしめして、成就せられたる大御心を、この私めがけて与えて下さる。与えられた心によつて、私どもは初めて、仏と相抱き、仏をたのみ、仏を力にすることが出来るのであります。まことに泥の中より咲き出た蓮華といおうか、火の中に立つ氷と申そうか、衆生貪瞋煩悩中に能く願往生の心を生ず。貪瞋煩悩は?々起れどもまことの信心はかれらにも障えられず、転倒の妄念常にたえざれども更に未来の悪報をまねかず。手強い金剛心は常に私共の力となつて下さる。この力や全く如来金剛心が徹底したるものに外ならないのであります。
年々に咲くや吉野の桜花 木を割りて見よ花のありかを
母に抱かれた幼児の、如何に可愛く無邪気に無我なるかを見よ。そこには要求もなければ不足もない。恐怖もなければ計いもない。身の行儀も顔の表情も、そんなことには少しも気をかけず、裸体のままでひたと縋り添う母の胸。慈愛あふれる声を聞き、温かい血の通う腕にからまれては、抑えきれない歓喜と、云うに云われぬ満足と、包むにあまる安住とがあるばかり。親の心のありたけが徹り届いているを見るとき、私が如来を信ずるのは無理無体に力んで信ずるのではない。信ぜずに居られぬからである。ひとえにこの私のためにお骨折下さる如来の御親切のやる瀬なさ、慈悲の切なさに、まかせずに居られぬのである。信じまかすのは、固より家庭円満にする為でもなければ、名利の為でもないが、信じまかせられてみれば、自然と一切のためになつて下さるのである。
真実に親の至誠に動かされた一念の端的は、心も言葉もたえはてて、感恩の情に迫つて身も心も打ちとけて、感謝の喜び慚愧の悲しみ、懺悔の外は、ただ念仏と涙ばかりであります。南無阿弥陀仏々々々々々々。
「横田慶哉先生追慕録」(昭和三十七年三月二十日発行)