ご遺稿
『教行信証』の「信巻」に、「具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信と謂ふべきなり。」との文がある。ここにいう「超越」には、正定・滅度の二度の体験がある。ただし必至滅度の体験は、臨終における体験であるから、浄土真宗おいては、入正定聚の体験こそ要中の要である。具縛の凡愚・屠沽の下類が、仏の加威力があればこそ、刹那に超越の不可思議が現成する。これがまさしく真宗の信の一念である。先師横田慶哉先生は、よく禅の「百尺竿頭尚一歩を進む」の語を引いて信仰の極致を説かれ、「猿は百尺の竿頭までは達するが、なお一歩を進めることは不可能である。真宗の信仰も、道理や理屈はわかっても、真実の信仰を獲ることは容易ではない。『至心信楽、己を忘れて弥陀たのむ』と申されている。」と教えられた。この具縛の凡愚が刹那に超越する入正定聚の体験は、いかなる体験であるか。それを明らかにすることが、真宗教学の重要な課題である。
蓮如上人は、入正定聚への超越は、一念発起の刹那にありとされた。この一念は、「後生たすけたまへと弥陀をたのむ」信順の一念である。またこの一念は、宿善の開発であり、仏智他力のさずけによりてなされるものであり、その一念発起のとき、往生一定の大益を得るのである。この地獄必定の私が、往生一定の身になる転換は、不可称・不可説・不可思議の体験である。それは夢幻の世界にあって、それを実在と固執し、五欲に耽って自害害彼の生活を送りながら、聖者であるかの如き?慢に終始していた私が、威神功徳不可思議の仏光に照破され、百鬼夜行の悪夢から忽然とめざめ、清浄無碍・一如法界の真実にふれ、身心悦予・歓喜踊躍し、体失せずして往生を得る体験である。『正信偈』には「惑染の凡夫信心を発しぬれば、生死即涅槃と証知せしむ」と説かれている。真宗の信楽開発は、禅でいえば大悟徹底である。道元禅師の悟りが身心脱落であれば、親鸞聖人の信心も六趣四生因亡果滅、そこに何等へだたりがあってはならない。禅の大悟は、真宗の入正定聚である。しかし有漏の穢身に依存するかぎり、煩悩の氷が一瞬に融けて菩提の水に転じても、また氷にもどることがあり得る。虚仮不浄の肉体を浄化せざる以上、一生造悪もやむを得ぬ娑婆の約束であろう。けれども煩悩の唯中に、摂取不捨の光明は輝き、人間生活の上に仏心は随所に発露され、限りなき法悦と安らぎをもたらすのである。
十九世紀から二十世紀にかけて、科学の進歩はめざましく、第一次世界大戦・第二次世界大戦を経て、軍備の拡充に伴って原水爆が製造され、また航空機の発達から宇宙ロケットの開発を生み、人間は宇宙の征服を夢みるまでに至った。経典の中に、この世界も成・住・壊・空の四期の変遷があり、地球が自壊作用をおこして住めなくなると、生物は大挙して他の世界へ移動すると説かれているが、宇宙船に乗って地球上の人間が他の惑星に移住する時が来るかも知れぬ。しかしそういう時が来ても、人間の生死無常が解決しない限り、人生が夢幻の世界であることは少しも変りはないであろう。また人間の苦悩は、すべて社会関係に発するから、社会体制を合理化し、物資を無限に生産して還境を改善するならば、この世に天国をもたらし得るとする説もあるが、パンの問題が解決できても、より複雑な人間存在の問題が残る。「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉もそこに意味があるといえよう。
科学の進歩は、人類の福祉を増進し、人間の苦悩を緩和したことは否定できぬ。しかし誰もが直面する死という事実から人生を展望するとき、現世のプラスはマイナスに一転する。人生の幸福は必ずしも真の幸福ではない。幸福が大であればある程、臨終の苦しみは大となる。いずれにしても現実は夢幻の世界である。人生は苦海であり、厭うべき世界であると断定した仏説は、万古不易の真理である。
科学の進歩に眩惑され、未来を見る目を失っている現代の中に生きながら、稀有の善知識に逢うて久遠の夢からさめさせて頂いた者の幸福はたとえ難きものである。経典は存し、教団もあり、学者も多く、研究にこと欠かぬ。しかしわれわれの迷妄を破り、生きた宗教的世界へ導き得る正師は数少い。
「信仰を獲るには、まず自分の値うちを知らねばなりません。私は一体何者でしょう。この地上で親ほど大切なものはありません。親の涙で子は育つといいますが、はえば立て、立てば歩めの温い両親の養育があったればこそ今日の私があるのに、一度たりとも親に感謝したことはなく、妻子を持つに至っては、親をうとんじ、不孝をかさね、親の最後にのぞんでもその回復を祈るどころか、早く死ねばよいと心で殺すような私です。この私が地獄へおちずに誰が地獄へおちるでしょう。こんな悪人の私を、おひきうけ下さるのは、三世に一仏、恒沙に一体、本師本仏の大悲の親さまよりほかにはありますまい。」
高慢我慢の日暮しを続けていた私の腹底を見すえた先師横田先生の説法獅子吼は、私にとってまさに、一大鉄槌であった。無漏清浄の御仏の本願を、凡夫の知恵によって信じ得ると考えているのが大きなあやまりである。親鸞聖人は「信楽釈」に、「しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に?縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。」と記されている。弥陀の本願は凡夫には信ずることのできない不可思議である。それを得道の人なればこそ、信ぜしめねばやまぬ説法によって導きたまうのである。「信心定得の人は、仏よりいはせらるる間、人が信をとる」と蓮如上人もおっしゃっている。悪人めあての弥陀の本願の底をたたいての先師の説教は、長寝大夢の私の深い眠りをさまさせる不惜身命のものであった。久しく煩悩客塵にわざわいされ、三界流転の苦海に沈淪して、幾多の苦患をうけてきた私が、今や大慈大悲の御仏の念力によって虚妄?倒の夢を破られ、安養の浄土へ帰らしていただく日も近い。まことに「報じても報ずべきは大悲の仏恩、謝しても謝すべきは師長の遺徳」と申さねばならない。
合掌
荻野・源正寺において 西本誠哉識