若い時代には長年、刑務教誨師として、高知刑務所をはじめ各地の刑務所で受刑者の更生に尽力しておりました。その老僧と死別して早や、五十六年を閲しました。私の記憶では、祖父はこの世の地位、名誉、財産といったものには一切、縁がなく、わが息子にも先立たれた孤独な老人でした。
しかし、私の知る限り、決して愚痴一つ言わなかった人でした。
ただ念仏一ツ、心豊かな生涯を終えた人でした。戦時中に私の父は早世しました。小学生で、ひねくれ者だった私の心の土壌を耕してくれたのはこの祖父です。色あせた、貧弱な黒い衣を身にまとい法務に従事する老僧を軽蔑の念をもって迎えたこと。時には食糧不足を補うため、近くに耕地を借りて、なれない老体にむち打つ姿。さつまいも等の栽培に従事する時、その片棒をかつげと依頼されいやいや肩を貸す。その孫の肩の荷の負担を、できるだけ軽くしようと配慮する祖父の気づかい。今思えば、すべて慚愧のきわみです。
耳の底に残る祖父の声は仏恩報謝の称名、お念仏の声のみです。
声なき声が今も聴こえてきます。そんな祖父を心の中では深く尊敬しておりました。
人生の心の闇路を照らす仏のまことに出遇えと願ってくれました。人生の旅路にあって祖父の生きざまに導かれるところ大なるものがあります。まことに希有なる人に邂逅(出遇い)した思いです。
この人との出遇いによって薫習(薫りが衣服について残るように、行いが身について残る)された人生を生きる一筋の道。それが私の心に残る、只今に生きて働く、素晴らしい宝です。
祖父は七十六才で命終、往生の素懐をとげました。今日、私はその年を迎え感慨深いものがございます。「遠く宿縁を慶べ(教行信証)」の聖人のお言葉は私一人に呼びかけられる声といただいております。